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序章2

中村天風の略歴】

では、中村天風はどういう略歴の人なのか、見ていきます。

本名は中村三郎、明治九年に生まれ、柳川藩主の血筋に生まれました。

柳川藩とは現在の福岡県

そこで、日清・日露戦争時には軍事探偵として、蒙古草原をさまよい、「人斬り天風」の異名をとったそうです。若いころは、血気盛んだったらしく、敵の砲兵部隊に斬り込み、敵方に捕まるも、銃殺の寸前のところを危機一髪で救わる、という視線をかいくぐったこともありました。

そんな人斬り天風も最初から、「天風先生」と呼ばれるような、思想を確立した人ではなかったそうです。上のような、視線をかいくぐる活躍をした人間はたくさんいましたが、天風はこの武勇伝に加え、様々な困難を独力で乗り越え、「心身統一法」という思想を確立しました。

※ここの「思想」は本文では「哲学」となっていますが、哲学というのはあまり、適切な表現ではないと思うため、「自身の主張」というニュアンスで思想と言い換えます。(というのも、日本ではこの○○哲学という言い方、「〇〇という信念」や「○○という主張」として使われることが多い気がします。でも、哲学ってもともと「疑う」ものだと思うんですよね~、大学のころ哲学の先生が「宗教は信じること、哲学は疑うことが根本⦅確かこんな感じ⦆」って言っててそうだと思いました、例えば、ニーチェで言えば「生の哲学」だけど、「力への意思」は思想みたいな?このニュアンス間違ってたら誰か教えて)

その困難とは、病気でした。天風は日露戦争のあと、帰国した日本で死の病となってしまいました。そこで天風は病のなか、心の救いを求めてアメリカ・ヨーロッパ・インドと世界求道の旅を続けることになりました。

みずからの運命は自分で解決しようと、コロンビア大学では医学博士の学位をとり、世界一流の学者や宗教家にあって「人間は肉体を自由にするように、心を自由にすることは出来ないだろうか」と病める体にムチ打ちながら、心とはなにかを問い続けました。しかし、世界の著名な知識人たちの答えは、ただ天風に失望を与えるだけでした。願いむなしく絶望の果てに、天風が死の旅路を決意したとき、カイロであった一人の老人と出会いました。その老人こそ、天風先生の運命を変えたヨガの聖者カリアッパだったのです。

「死にたくなかったら、俺についてこい」と、言われるままに、たどりついたのは、ヒマラヤ第三の高峰・カンチェンジュンガの麓の村でした。そして、修行すること、2年数か月、天風先生はついにヨガの奥義である「宇宙と人間の冥合」を会得し、心身統一法という、天風思想を確立した。

※ここはつっこみどころ満載だと思う(笑)まずコロンビア大学の博士号とってる間に死ぬやろと思いましたね(笑)全然死の病じゃない(笑)

あと、カリアッパはチベット仏教の人らしいが、やっぱ「宇宙と~~」みたいなのって仏教系って感じがしますね。心の平穏系は「東洋哲学」に多いとかって聞いたことがあるけど、仏教が最たる例だと思う。中国の場合、儒教は結構外的な承認をもとめるし、政治的なところが多いかな。そうなるとやっぱ荘子が中国では、心の平穏的な感じ?わかりません、ちゃんと勉強します。

 

今回はここまでです。次回へ。