中島義道『哲学の教科書』 著者紹介
闘う哲学者 中島義道
※著者に関しては、敬称略となっています。
前書きを一見するとかなりダウナーな感じですが、その通りです。
出版されている本も、
『ひとを<嫌う>ということ』
『人間嫌いのルール』
『人生に生きる価値はない』
『どうせ死んでしまうのに、なぜいま死んではいけないのか』
『働くことがイヤな人のための本』
(並び順は適当です、許してちょ)
などなど、一応大学の教授までやった人ですから、「仮にも教育者なの!?」って感じのラインナップです。
気分が下がっている時に中島義道本を読むと「なんかもう全部どうでもいいな~」って思わせる魔法を持っており、その哲学的訓練で鍛えられた文章群によって、私たちのニヒリズムを煽りに煽ってくる印象を受けます。(私は。)
一方で、その文章には「死を受け入れているからこそ、今の生とは何か」という問いを想起させてくれるような気が私はしていまし、また自身が哲学を営む上で「苦しまなければならない」という学問上の、謂わば逃れられない運命を背負っている人だと考えています。
なので、今回の見出しにもありますが、「闘う哲学者」とも呼ばれ、なんだかんだで熱い人なんだな~という印象を受けます。
この人の考えには、ある種の‘‘人間臭さ‘‘があり、その臭さにはまる人も多く、聞くところによると、林修さんも好きだとか。臭さにはまったのかは知らんが。
哲学の教科書
さて、長くなりましたが、今回はその中島義道の『哲学の教科書』について解説していきます。
学問系解説の栄えある一発目なので、好きな人・本をチョイスしようと思い、こちらを選んだのですが、私としては第1章の話ができればぶっちゃけもう満足です。
第2章以降もおもしろいのですが、如何せん長いです。筆が乗りに乗らなければやらないですね。(テキトー)
では、その私が満足な第1章とは何かというと「死を忘れるな!Memento Mori!」という、「死についての哲学」の話になっています。
正直、「死」については前々から興味があり、様々な本を読みましたが、「死」と「生」の関連について、この章は明快且つ論理的に書かれていると私は思います。
そして、その「死」に関する考察が、先述の‘‘人間臭さ‘‘を醸し出しており、この章より後に出てくる、サルトルとかフランクルとかへの思想もさらに面白く読めてくるのかな~と思ったりもしてます。(俗にいう実存主義?あまりこの用語使いたくないんだけど、一応サルトルもフランクルもなんか実存主義の人ってイメージ⦅サルトルはよく言う話だし、フランクルもハイデガーの影響を受けてるらしい⦆。まあサルトルが「実存とはヒューマニズムである」とかなんとか言ってるから、やっぱ人間臭いのは、名も体も一致してるのかな~)
なので、この「死」の問題について、どう面白いのか、中島義道はどう考えているのかを解説していきます。
そこで終わっちゃうかもしてませんが(笑)、興味がある人は見てください。
次回に続く
*1:
詳しくは本書「第5章 哲学者とはどのような種族か」にあります。興味ある人は読んでみてください。「お前は解説しないんかい!」というツッコミもありそうですが、そこまでいける自信が今のところ皆無なのと、正直第3・4章とか、ダウナー度合いが高いので、気分が乗っている時にしか解説したくないというのが本音です。
*2:この記事はちゃんと取材していて信憑性もあると思います。
*3:私が立ち読みしてこの本に興味をひかれたのも、元々ハイデガーが好きだったという事情がおおいにあると思う。この章で少しだけハイデガーに触れることになるが、そこで見た「メメントモリ」の解釈を見たときに腑に落ちた感覚があったので、一気に読むことができた。ハイデガーはいつか、このブログでやりたい、というか、必ずやる。木田元を読めば、ある程度ハイデガーが哲学史上に残したインパクトについては、書ける自信が0.0000000000001%だけあるが、ハイデガーが打ち立てた思想?哲学?みたいなものに関しては、ドイツ語やら様々な語学の解説を挟まなければ、ならないのでめんどくさい(てかできる気がしない)し、理解も出来てない。※ちなみにハイデガーは20世紀最高の哲学者と呼ばれ、『存在と時間』という本を書いた人です。