喜びの情熱と悲しみの情熱ー生とは情熱ー
今回はこれです。
副題は自分でつけました。(ちなみに『ツァラトゥストラ』の副題はすべて自分でつけてます、勘違いされている方いらっしゃったらごめんなさい🙇)
今回の結論は、副題の通りです。
要するに「ニーチェは生きるってことは情熱をもってなんかすることじゃね?別に苦しみでも、喜びでもよくね?」っていうことが言いたいんだと思います。
マジ刹那的ですね。
まあだから僕含めた中二病にウケるのだと思いますが、僕はニーチェほど徹しきれてないなと一方で、悔しかったりもします。
では、本題ですが、まずニーチェは人間には「徳」があり、それを誰とも分かち合うな、と言います。
わが兄弟よ、あなたがひとつの徳を持ち、それがあなた自身の徳であるなら、それは他の何びととも共有すべきものではない筈だ。
……
むしろこういうべきなのだ。「わたしの魂に苦しみや喜びを与えるもの、私の内臓の飢えでもあるものは、言葉に言いあらわしがたく、名前をもたないものなのだ」と。
……
吃りつつ、こう言いなさい。「これがわたしの善だ。わたしはこれを愛する、私はすっかり気に入っている。……
わたしはそれを神の律法とは欲しない。……
わたしはそれを超地上的な世界、天上への楽園への道しるべにはしたくない。
わたしが愛するのは大地の徳である。そこに利口な駆引はあまりなく、万人に共通な理性はもっとすくない。……
簡単にいうと、自分の「徳」をしっかりと守り、貫きなさい。それは神などが与えるのではなく、あなた自身が決めることであり、それは他人と簡単に分かち合えるものじゃなく、更にいえば分かち合えないぐらいが良い、みたいな感じでしょうか。
(多分、日本語訳が「徳」にっているのはなんらかの意味があると思う、「信念」とかじゃなくで、ギリシア哲学とかキリスト教的な意味合いも含まれてると思う。要するに、「自分が大切だと思ったらなんでも良い」のではなく、「周りのこと、世界のことも考えようね」的意味合いだと思う。※ギリシア哲学とかキリスト教的な意味合いって言ったけど、正確にはそういう理性とか博愛精神を含みつつ、一方で人間独自のものを大切にしたかったんじゃないかな)
そのあと、ニーチェは苦しみと喜びの情熱についてこう説きます。
かつてあなたは、あなたを苦しめるさまざまな情熱を持ち、それを悪と呼んだ。しかし、今はそれがすべて徳なのだ。苦しめる情熱から生まれたものだ。
あなたはあなたの最高の目的を、これらの苦しめる情熱にふかく植えつけた、そこでかれらは徳とかわり、よろこびの情熱となった。
……
結局、すべてのそうした苦しめる情熱は徳となり、すべての悪魔は天使となったのだ。
んーー。ニーチェを「力への意思」とか「理性批判」
の人物としてみると、「キリスト教・理性世界の苦しみは、今まさに人間を中心とした徳の中で、喜びへと変わるのだ!!」的なニュアンスなのでしょうか。
ただこれで読むとつまらないので、素直に自分に照らして読むと、
「昔悩んでたことが、一方で喜びにかわる瞬間があるよね」ぐらいにしか聞こえませんねーまあ解釈はこのぐらいにしておきます。
ただ、最初読んだときは「自分の信念を持とう」くらいにしか読んでいなかったのですが、「信念」じゃなく、「徳」って書いてあることが二度目以降に印象に残っています。
ま、一人よがりすぎるのはいけませんかね。。。
一方で、強くいくときも必要だとも思います。
では、今日は次の文で最後です。この流れで終わるのかと思っていたのですが、
最後がまだわからない、こんな形で終わっています。
負けじ魂の炎に包まれた者は、ついにはさそりのようにわれとわが身に毒の針をさす。
ああ、わが兄弟よ、あなたはまだ自分の徳が自分自身を咎め、自分自身を刺し殺すのを見たことがないのか?
人間は克服されなければならない或る物である。だからあなたはあなたの徳たちを愛さなければならない。-なぜなら、あなたは徳たちによってほろびるであろうから。-
また次回。