死の説教者ー人生を信じるためにー
今回は「死の説教者」です。
副題はいつも通り、自前です。
まず要約すると、ツァラトゥストラによれば、
「世の中には死を説教する者が多く、一方で、死んでもしょうがない人間が充満している」と言います。
以下はその、「死の説教者」についての例です。
※筆者による抜粋・意訳
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世の中には、死を説く者が多く居り、更には、説かれてもいいような人間が充満している。
死を説教者のあるものは、快楽か自虐しか教えない、快楽といっても形を変えた自虐であるのだが。
死の説教者のあるのもは、魂の結核患者たちだ。
彼らは倦怠と諦念の教えにあこがれる。
他の説教者は、
「生きることは、悩むことにすぎない」
「情欲は罪である」
「子供を産むのは、苦労である」
「同情を忘れるな」
と言う。
それからまた、人生を劇務と見、落ち着かないとみているあなたがたも、はなはだしく人生に倦んでいるのではないか?あなたがたもの死の説教を聞くにふさわしく、充分熟れているのではないのか?
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このようにみると、ツァラトゥストラのよる「死」は、=「人間性や力への意志の否定」なのではないかと((「力への意志」とはニーチェによる概念で、「人間はより力強く、高みに上っていくべき存在である、というものです。、思います。
「諦観・悩み・情欲の否定・子供の否定・同情」と、生への弱弱しさを感じる考えをツァラトゥストラは否定します。
これらを無くし、能動的に・力強く生きていくことをニーチェは望んだのでしょう。
ただ、単に能動的ではなく、自身の生を肯定し、自身で生きていくことをとても重視していると私は考えます。
劇務や、スピードや、新奇なものや、異常なものをこのむあなたがた全部ーあなたがたは自分自身の始末に困っているのだ。あなたがたの勤勉は逃避であり、自分自身を忘れようとする意志なのだ。
劇務・スピード・新奇・異常なものへのあこがれは、自身で生きていくことではなく、それらに身をゆだねているだけであり、それらに対する勤勉は、ただの逃避なのだといいます。
これは、大半の人がそうなのではないでしょうか。
日々の忙しさに追われ、その状況によって目標を変え流されているのであれば、
きっとそうなのだと自分でも思います。
ワーカーホリックという言葉がありますが、自分を生きるためにはあまりよくないということですね。
では、最後の箴言です。
ツァラトゥストラは「待つこと」を重視してこう言います。
「あなたがたがもっと人生を信じていたら、これほど瞬間に身を任せることはあるまい。だが、あなたがたは、待つことができるだけの充実した内容を、自己の中に持ち合わせていないのだーそれで怠惰にすらなれない。」
至るところに死を説く者の声がする。そして大地は、死を説教されるにふさわしいもので充満している。
自分も死を説教されるものになりたくはないです。
今回はここまでです。