三段の変化 -ニーチェが語る精神の段階ー
三段の変化―精神についてー
最初はこの話です。※副題は自分でつけてます。
この話がとても比喩が利いていてとても好きです。
意味はわかるようなわからないようななんですが、
多分自分で解釈して腹落ちすると良いのかなと勝手に思っています。
さて表題ですが、最初僕はこれを読めば「これでニーチェの精神が獲得できる!」
と意気込んだものですが、そんなに甘くはないですね。
まあ「学ぶ」ぐらいでしょう。ではいきます。
ニーチェによれば、精神には三つの段階があるそうです。
それは「駱駝」―「獅子」―「幼な子」へと段階を踏むそうです。
以下、本文を要約気味に書きます。
まず「駱駝」はたくさんの荷物を背負っている。
その荷物は、
進んで人に服従するようなことかもしれない。
勝利した瞬間もそれを捨て去り、また高い山に登ることかもしれない。
また真理の水であると知るなら、汚い水をわけて入り、嫌がらないことかもしれない。
こうしたすべての荷物を背負い、砂漠を歩き、最も荒涼たるなかで第二の変化が起きる。
それが「獅子」への精神の変化である。
「獅子」は一言で言えば、「我欲す」ということらしい。
この「獅子」には強大な敵がおり、それは「竜」であるという。
「竜」は「汝なすべし」という名であり、一枚一枚の鱗が光り輝いている。
その姿で「竜」はこう言うのだ、「いっさいの価値はすでに創られている、それはこの私なのだ。そのため、『我欲す』などあってはならない」と。
しかし、ツァラトゥストラは「新しい価値を創造することは、獅子にもできない。だが、新しい価値を作る自由を得ることは、獅子にしかできない」と言う。
自由を手に入れ、義務ではなく、「欲する」ことをしなければならない。
そして、この自由を手に入れた後に、「幼な子」の段階がくる。
「幼な子」は聖なる肯定を持ち、創造の遊戯のためには聖なる肯定が必要なのだ。
ここに精神は自分の意志を意志し、世界を失っていた者は自分の世界を獲得する。
以上が抜粋且つ私なりの要約ですね。
一番好きなのは「獅子」と「竜」の話です。
「獅子」の「我欲す」が、ニーチェの理性主義批判ぽいなと思っています。
「竜」がニーチェの時代のキリスト教とか理性主義を表していて、これに立ち向かうような印象を受けます。
(この「竜」って何かの引用なんですかね。知ってる方いたら教えてください)
駱駝までいったら、あとは自由を手に入れなければならないということだと解釈して、頑張ろうと思っています。
今回はここまでです。
次回は、他の篇で書いていこうと思います。
『ツァラトゥストラはこう言った』上 岩波文庫 解説
今回は『ツァラトゥストラはこう言った』上(岩波文庫)をやっていきます。
他の解説はどうしたと、ツッコミが飛んできそうですが、実は家の本棚を片付けて実家に送ってしまい、解説していた本があちらこちらにいってしまいました…orz
なので、借りてくることが出来たニーチェで進めていきたいと思います。
さて、上でも書きましたが、ニーチェです。好きな方は好きかもしれませんが、おそらくインテリ主義の方か、相当とんがっているか、哲学的思考が好きな方以外は読む可能性は相当少ないと思います。
・19世紀中ー後半の人
・ドイツ(当時のプロイセン)に生まれる
・学術的才能を開花させ、博士号がないにも拘わらず古典文献学の教授として、大学に職を得る。(今も昔もそうだが、大学の教員になるのは本当に大変)
※しかし、本人は哲学の教授を希望していた
・哲学科への希望を出すほどであるから、哲学的思考を好み、当時のヨーロッパにおける理性的な考え方やキリスト教的価値観に反発して、「超人」や「永劫回帰」など、人間を中心に据えた思想を展開し、「神は死んだ」と説いた。
まあいろいろ書きましたが、簡単に言うと、
「当時は理性やキリスト教が重要視されてたけど、ニーチェは『いやもっと人間らしさに目を向けようぜ』って言って、更に『でも、人間らしさっていうけど、人間はすぐ怠けるから、超人にならんとな』、って言った人」
だと、私は思っています。(大体あってると思う)
まあウルトラストイック人間なんです。
最後は発狂して死んでますし、音楽とか学問に関しても厳しい態度で臨んだ人で、所謂テンプレの「THE 学者」のイメージな人ですね。
まあそれは置いておいて、その「超人」とか「永劫回帰」とかが、この『ツァラトゥストラはこう言った』(以下『ツァラトゥストラ』)に反映されてるというわけです。
じゃあ、その本はどんな内容なのか、確認していきます。
簡単に言うと、
ツァラトゥストラは「超人」であり、「永劫回帰」を教える人だった。
山にこもっていたツァラトゥストラは、山を下り民衆に対して、「超人」思想を説いていく。
受け入れられないことも拒絶されることもあるが、説法形式でニーチェの思想が展開されている。
という、内容になっている。
正直、かなり比喩が使われているので、キリスト教・西洋哲学全般に通じてないと、多分意味がわからない可能性が非常に高い。
ただ本気でこれを解説しよとすると、一記事にまじで何日もかけることになるし、突き詰めていくと、ドイツ語で原文読まなければならないが、そんなことはできないので、この岩波訳オンリーで行けるところまでいきたいと考えています。まあ解説にもあるように、わかりやすさを重視したって書いてある本を使えばある程度、この本だけで読めるようになってはいるし、夏目漱石も原文は読まず英語訳で批評を加えていたらしいから、良いでしょう。
一応物語調にはなってますが、好きなところをピックアップして、感想・想像・批判をしていきたいと思います。
では、次回から始めていきます。
丸谷才一『文章読本』「第二章 名文を読め」①
文章上達の秘訣はただ一つしかない
その秘訣が「名文を読むこと」であるそうです。
著者からすると、これ以外は全て枝葉末節に過ぎず、最も肝心なことで、
且つ、日本の名だたる小説家も同じように思っている節があるらしいのです。
たとへば森鴎外は年少の文学志望者に文章上達法を問はれて、ただひとこと『春秋左氏傳』をくりかへし嫁と答へた。『左傳』を熟読したがゆゑに彼の文体はあり得たからである。
(中略)
古典など読むな、名文など避けて通れとさとすはずはない。われわれは常に文章を伝統によって学ぶからである。人は好んで才能を云々したがるけど、個人の才能とは実のところ伝統を学ぶ学び方の才能にほかならない
そうです。これを読んだときに、「古典のおもしろさがわからなかった」昔の自分に対して悔しく思いましたね。
というのも、ほぼ同様のことを手塚治虫が言っています。
※ちなみに私は手塚大ファンなのですが
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%8B%E5%A1%9A%E6%B2%BB%E8%99%AB
上記の「4.5 関係の深い漫画家」の赤塚不二雄(『ひみつのアッコちゃん』・『天才バカボン』の作者)の項で、以下のように説明されています。
赤塚が新人漫画家としてデビューした頃、手塚は「赤塚クン。りっぱな漫画家になるには一流の映画を観なさい、一流の小説を読みなさい、そして一流の音楽を聞きなさい」と助言した。手塚の言葉に従い、赤塚はレコード店に行き、店員に「一流の音楽が聞きたいんです。一流のレコードをください」と言うが、店員は何を渡したらいいのか分からず困ったという。その後、赤塚も手塚が住んでいたトキワ莊で暮らした。手塚はトキワ莊のメンバーに同様に「マンガからマンガを勉強するんじゃないよ。」「一流の芝居を見なさい、一流の本を読みなさい」などと言っており、赤塚は「だから僕たち(トキワ莊メンバー)はあの頃、ほとんど酒なんて飲まなかった。そのかわり、映画を見に行こう、音楽を聴こう、ジャズのコンサートに行こう、小説を読もう。手塚先生がそうしろって言ったから。」「その時はわからなかった。それで後になってからその意味がわかってくる。手塚先生のおっしゃってたことは、やっぱりすごく大きいのだ。いい音楽を聴きなさい。いい映画を見なさい。いい芝居をみなさい。本当に大事な教えだったんだと今にして改めて思うのだ」と語っている
また、最近youtubeで発見したのですが、坂本龍一が手塚治虫に対して、
曲線がすごくきれいなんですよね。
手塚さんっていうのはね。優美なの。
動物を描いても、あの可愛らしさっていうのは曲線から来ている
女性の曲線もすごくきれいだし。
あそこの曲線に僕は音楽を感じる
https://www.youtube.com/watch?v=3_-81zDE2os
(1分52秒~2分11秒)
と言っています。
手塚は音楽も好きで、クラシックも聞いたし、オペラも好んで見ていたそうです。
芸術一般への関心がとても強かったのだと、改めて尊敬しました。
芸術系での、著名な業績を残した人はみんなそうなんだろうなと思いました。
さて、話を戻して『文章読本』です。
丸谷は、まず名文がわれわれに教えてくれものは、言葉遣いであるといいます。
しかし、この言葉遣いを学ぶ、とは、単に大時代な美文・虚しい虚飾・古人の糟粕をなめる作文術ではなく、もっと一般的なこと、なのだそうです。
曰く、
落ち着いて考えへてもらひたいのだが、われわれはまったく新しい言葉を創造することはできないのである。可能なのはただ在来の言葉を組合わせて新しい文章を書くことで、すなはち、言葉づかいを歴史から継承することは文章をかくといふ行為の宿命なのだ。
と。私は「ん~そうでもなくね?(笑)」と思うのですが、皆さんはいかがでしょうか。
流行語とが新語になることもありますし、哲学者は造語を作るのでこの言い方は如何なものかと思いますが、まあ既存の言葉がない限り新語はできないっていうのはわかります。(言葉というか、文字?ひらがなが新しく増えたりはしないでしょうからね、まああと哲学用語の場合はどちらかといえば、概念が作られるのでしょうから、この「新しい言葉ができない」という意味には含まれないのでしょうか。とりあえず、この時点では、「新しい文字は生まれない」ぐらいの認識でおきます。※なんか深堀したくなってきたけど、ここですると「文章上手くなりたい!」の目的に反するので、割愛します)
さて、その「名文を読」まなければ、言葉遣いを学べないという例として、丸谷は志賀直哉と世阿弥を比べています。
たとへば志賀直哉の、
Kさんは勢よく燃え殘りの薪を湖水へ遠くへ抛(はふ)つた。 薪は赤い火の粉を散らしながら飛んで行つた。それが、水に映つて、水の中でも赤い火の粉を散らした薪が飛んで行く。上と下と、同じ弧を描いて水面で結びつくと同時に、ジュッっと消えて了ふ。そしてあたりが暗くなる。それが面白かつた。皆で抛つた。Kさんが後に殘つたおき火を櫂で上手に水を撥ねかして消して了つた。
舟に乗つた。蕨取りの焚火はもう消えかかつて居た。船は小鳥島を廻つて、神社の森の方へ靜に滑つて行つた。梟の聲が段々遠くなつた。
(『焚火』)
この文章は平明な写生文であるが、ことごとく過去の言葉遣いの合成にならないのことは、以下の世阿弥における、
地次第「衣に落つる松の聲。衣に落ちて松の聲夜寒を風や白らすらん。シテ「音信(おとづれ)の。稀なる中の秋風に。地「憂きを知らする夕べ(ゆふべ)かな。シテ「遠里人(とほざとびと)も眺むらん。地「誰が世と月は。よも問はじ。シテ「面白のをりからや。頃しも秋の夕つ方。地「牡鹿の聲も心凄く。見ぬ山風を送り來て。梢はいづれ一葉散る。空冷まじき月影の軒の忍にうつろひて。シテ「露の玉簾(たまだれ)。かかる身の。地「思をのぶる。夜すがらかな。宮漏高く立ちて。風北にめぐり。シテ「隣砧綏く急にして月西に流る。地「蘇武が旅寢は北の國。これは東の空なれば。西より來る秋の風の。吹き送れと間遠の衣擣たうよ。上「古里の。軒端の松も心せよ。おのが枝々に。嵐の音を殘すなと。今の砧の聲添へて。君がそのたに吹けやかぜ、餘りに吹きて松風よ。我が心。通ひて人に見ゆならば。その夢を破るな破れて後は此衣たれか來ても訪ふならばいつまでも。衣は裁ちもかへなん。夏衣薄きは契はいまはしや。君が命は長き夜の。月にはとても寢られぬにいざいざ衣うたうよ。かの七夕の契りには。一夜ばかりの狩衣。天の河波立ち隔て。逢瀬かひなき浮舟の。梶の葉もろき露淚。二つの袖やしをるらん。水蔭草ならば。波うち寄せようたかた。シテ「文月七日の曉や。地「八月九月。げに正に長き夜。千聲萬聲の憂きを人に知らせばや。月の色風の氣色。影に置く霜までも。心凄きをりふしに。砧の音夜嵐悲の聲虫の音。交りて落つる露淚。ほろほろはらはらはらと。いづれ砧の音やらん。 (『砧』)
このような絢爛たる綺藻の場合となんら異るところはない、と丸谷は言う訳です。
※正直に私には、そこでまで共通点がわかりません(ずーん)しかし、世阿弥の文章が美しいのはわかります。
このような古来の名文は、言葉遣いのみならず、正しい文章の呼吸法まで教えてくれることが、名文の功徳の二つ目だそうです。
さて、では他にはどんな効用があるのか、また次回をお楽しみに。
丸谷才一『文章読本』著者紹介 ※文章を上手く書きたい人へ
文章が上手くなりたい!
また、突拍子もなく始めます。
いつも文章が上手くなりたいな~と思っていたので、
今回はこれ。
丸谷才一という、東大の英文卒の方で、芥川賞・谷崎賞・読売文芸賞・野間文芸賞・川端賞などなどを受賞した日本を代表する小説家の一人です。
『笹まくら』や『年の残り』などが有名ですが、残念ながら私は一冊も読んだことありません。
では、なぜこの人を書こうと思ったかといえば、家にあったからです(どーん)
本当は谷崎潤一郎の『文章読本』も遠い昔に買った記憶があったので、読んで書こうと思ったんですが、見つかりませんでした(どーん)
川端のものでも良いんですが、買うのめんどくさいのでこれでいこうと思います(どーん)
ここまでだけだと「しゃあないから書くか」的な感じになり、日本を代表する小説家に失礼なので、一応弁明をしておくと、パラ見した感じ、とても印象的でちゃんと読もうと思えたことが、一番の理由です。
特に「第二章 名文を読め」などは、具体的なことがいくつも書いてあり、おもしろいなと感じましたし、これをブログで写経(うちこみ)するだけでも違うと思いました。
※ただ、例文が長いからめんどくさいことに違いはない
文章を上手く書くために、やっていこうと思います。
ただ、第一章はこれまでの『文章読本』に関する批評や日本語の口語に対する分析が主だったので、興味を持った第二章から始めていきたいと思います。
では、興味がある方は次回からぜひどうぞ。
第Ⅰ章④
四つの心身統一法
では、前回に引き続き、心身統一法について解説していきます。
天風によると、そのポイントは四つになるそうです。
①積極的精神の心得
一つ目はこれ。積極的精神の心得だそうです。
なんとなく、これまでと重複している気がしないでもないですが、まあ進めていきましょう。
天風曰く、それぞれの性格は先天的ではなく、後天的に作られるものだそうで、
消極的なのは本来の性格ではなく、積極的精神は努力で養うことができる
らしいです。このことを肝に銘じたら、次に、
どんなささいなことでも、いまの現在の自分の心は積極的かしらん、消極的かしらんと、厳格に第三者の子ことになってつねに検討すること。そして、少しでも自分の心の中に消極的なものを感じたら、断然それを追い払うことだ。心の中はつねに明るく充実しなければならない
ことを注意しなければならないらしい。
なんとなくわかる気がしますね。
これがまず第一点、次にいきます。
②マイナス菌に汚染されるな
二つ目は、マイナス菌=他人が撒き散らす消極的精神のこと、だそうです。
天風曰く、他人からの影響も自分の気持ちに大きく影響を与えるとのことです。
「じゃあ、かわいそうな人にとりあえず元気出せ!愚痴言うな!って言えばよいの?」
というとそうではなく、こんなことを言っています。
※天風があげたとある例(私の注です)
ある親しい友人が地方の支社に左遷された。
「ああ、どうして俺の人生はこうなるのか。まったくついてないよう。子供は大学受験を控え、女房も体が弱いときている。単身赴任となると家計は二倍かかるし、どうにかならんものかね」
友人だけに「社名だから我慢しろ」と無下にもいえない。一般にやさしいと思っている人は、相手の痛みを少しでもいやそうと、
「大変だな。会社ももっと身辺調査をして、地方転勤の可能なやつを行かせればいいのにな。君の苦労がわかるよ」
と、同情する。ここまではいい。
天風先生もこういっている。
「第三者の不健康や不運にたいしては同情することは、人間としてもっとも尊いことだ。同情しなければなりません」
だが、この同情を乗り越えて、
「会社もバカだよ、君のような優秀な男をさせんさせるなんて。頭来るよな。真面目に働いているのがバカ臭くなるぜ」
と、つい相手と同様の立場になって、怒ったり悲しんだりすることは、いましめなければならない。
なぜなら「同化」してしまうと、相手と同じ悩むを共有することになり、みずからの積極的精神も影響を受けて消極的となり、そこに同じような哀れな状態をつくってしまうからである
これはとても個人的によくわかりました。皆さんもなんとなくやってしまっていることがあるのではないでしょうか。
自分でもあまり愚痴には参加しないようにしていたのですが、「同情」と「同化」についてはあまり考えていませんでしたので、今後はここは気をつけていきたいですね。
※さすがにあまりにも、慰めてあげるくらいのことはしてあげないと、可哀そうだなと思うことがやっぱり多いですからね。
さてあと二点ですが、ちょっと手首が疲れてきたので、また次回。
第Ⅰ章③
生命の力
さて、前の記事の6つの生命の力に関してですが、私は勘違いしていました。
「体力」・「胆力」・「判断力」・「断交力」・「精力」・「能力」をどう身に着けるか?ではなくて、まず天風の「心身統一法」を実践すると、これらが飛躍的に伸びていくそうです。
およそ人生の生き方で何が大切かといって、この積極的精神以上の大切なものはない。健康も長寿も運命も成功も、極論すると、人生のいっさいがっさいのすべてが、この積極的精神というもので決定されるのだ
と言っています。「なんだよ!気持ちでどうにかなれば、こっちは苦労してないぞ!」と昔の私なら思っていたのですが、最近は「ん~そうかもな~」ぐらいに思ってきました。
根性とかポジティブシンキングでなんとかしようと思ったこともあったのですが、それだと何ともならないこともあったので、そもそもの根本の考え方?俗いう潜在意識?の方を変えていかないとな~というのが最近の感想です。
私が、このブログを始めたきっかけの某有名ブログも「どんな外部の状況でも、幸せは感じられる」と言っており、「外部の状況に惑わされない」ことの大切さ、を言っていました。
この領域は正直、私にはわからないので、まだまだなのでしょう(笑)
※そもそもなりたいのか?とも思います。どんな状況でも惑わされないって、まじで悟りの領域だと思うのですが、まだ早いかな~と思っています。
あと50年くらいたったり、いろいろどうしようもなくなったら、そんな感じになれば良いので、今は好き勝手やっていこうかな、という感じです。
さて、すみません、今回は私の勘違いで「六つの生命力」についてのお話の予定でしたが、おじゃんになってしまいました。(まあ何事も継続が大切だから、書くことだけにフォーカスしましたと、言い訳だけしておきます)
次回はしっかりと、その「心身統一法」を解説していきたいと思います。
では、また次回。
第Ⅰ章②
人間の創り方=生命の正しい扱い方
では、人間の創り方とは何かというと、生命の正しい取り扱い方ともいえるそうです。
その要点は以下の三つになるそうです。
①心と体が一丸とされたものが生命である以上、心と体の両方を自然法則に絶対にそむかせないようにすること。
②自然法則にそむかせないようにするには、第一に「心」の態度を終始一貫、いかなる場合があろうとも積極的であらしむること。
③積極的であらしむるとは、簡単にいうと尊く、強く、正しく、清く、生きること。
おおよそのことぐらい人生、および生命に対して大事なことはない。
そうです。ん~わかったような、全くわからんような。
ただ以前よりわかるような気はします。以前の私は、結構将来の心配やらなんやらでいろいろ悩んでいたのですが、「なんかわからないものに悩んでもあんま意味ないな~」とか「逆にこれだけやろ!と決めよう」と思ってから結構気持ちは整理されました。
具体的にいうと、今転職活動中(職なし)の状態で、いろんな職種に対して転職活動をし、「とりあえず内定!」と思いながら活動していたのが、数週間前です。その時は「就職できなかったらどうしよう(はわ~」とか思っていたのですが、「逆にやりたかった職種だけ決めて、それに集中しよう!」と決めたら、バイトやらなんやらで食いつなぐこともできるし、日々の生活によほどメリハリが出てきました。まあどこかの脳科学者も言ってましたが、「人間はゴールが決まるとそれに向かうための情報が入ってくる」というのは本当ですね。あとは、計画と行動さえ立てば何とでもなります。
※ただ、一方でこういう天風本で、精神改造でもしないかぎり、ニートで不安まみれ
だったかもしれないので、その点ではこの本とサイトを立ち上げるきっかけになった
ブログには感謝しかありません。(なるほど、これが天風のいうすべてに感謝か)
てな感じで、選択肢を絞って決めちゃうと、もうそれしかやることないので、逆に「落ちたらどうしよう」とか「あっちのほうが良いかな~」とか考えません。
ただ、ここまで書きましたが、肝心の①の「心と体の自然法則」とか③の「正しく」とか「清く」とかは、具体的にわかりません。
すると天風は日常でこんなことをしろ!と言っています。
①「心」も「体」もその可能率を促進することを本意としているので、その方法として「心」 のほうは、使用するときに必ず精神を統一すること。
②「体」のほうは、抵抗や耐久力というような生活に直接必要なものを力強くするために、訓練的に積極化を怠ってはいけない。
この基本原理を実行すると、心と肉体が期せずして統合統一され、その結果、「生命要素」つまり「生命の力」がぐんぐん増大して、健康はもちろん、運命まできわめて良好に向上するようになる。(長いので以下略)
これはすごい。もう心と肉体が統合統一されて、「生命の力」が増えると、健康も運命力も上がっちゃうらしい~ほえ~
まあこの時点ではにわかにどころか、全く信じられませんが、ただインド系のこの話は多いな~というのは率直な感想です。やっぱり師匠のカリアッパがその地方の方の人だからでしょうか。
そして、「生命の力」は6つのあるらしく、「体力」・「胆力」・「判断力」・「断交力」・「精力」・「能力」だそうです。
次回はこの6つについて、解説していきます。
次回へ続く。