ジェームス.W.ヤング『アイデアの作り方』 序
『アイデアの作り方』
今回はこれです。
うちを引っ張り出していたら、出てきました。
以前先輩にもらったもので、
読む→忘れる→読む→忘れる
を繰り返してはここまできました。
正直、内容はそこまで強く覚えていないので、
今回解説しながら思い出していこうと思います(笑)
序文はウィリアム・バーンバックという、広告代理店の社長が書いています。
どこの会社だよ、と思いますが、有名らしいです。
その社長曰く、
バートランド・ラッセルやアインシュタインのような科学の巨人が、このテーマで彼とほぼ同じ趣旨のことを説いているということが、ヤングの偉大さの何よりの証だ。
「お、まじか、私はラッセルやアインシュタインのようなノーベル賞受賞者並みの能力を体得できるのか」と、序文を読むたびにテンションが上がりますが、
そんな甘くはないですね。
その方法とは、
知識はすぐれた創造的思考の基礎ではあるが、それだけで十分ではない。
知識はよく消化されて、最終的に新鮮な組み合わせと関連性をもった姿となって心に浮かび出てこなければ意味がないという点で、彼らの意見は一致する。
アインシュタインはこれを直観と呼び、直観だけが新しい洞察に到達する唯一の道だと言っている。
らしいです。
「私も直観から新しい洞察に到達したいものですわ」と嘆息せずにはいられませんが、
この本読めば、それが得られるらしいので、読んでいきたいと思います。
今回はここまで。
孫子ー九変篇第八ー七 故に将に五危あり
将軍には五つの危険なことがある
今回はこれです。
将軍の危険な性質について、語っているのですが、一個人としても通じると考えています。
孫子曰くその五つとは、
①決死の覚悟で駆け引きを知らないものは殺される
②生きることばかりで勇気に欠けるものは捕虜にされる
③短気なものは計略に陥る
④清廉なものは辱められて計略に陥る
⑤兵士を愛する者は兵士の世話で苦労させられる
これは、おっしゃる通りですね。
①と②に関して、現代ではそこまでないかもしれませんが、
④と⑤はとても腑に落ちます。
清廉さや他人への愛情は度を過ぎると、
自身に成功をもたらさないのでしょう。
今回はここまで。
孫子ー計篇第一ー一 兵とは国の大事なりー戦争に勝つ基本条件ー
最初はここから始まります。
ですが、私はここが最も大切な基本だと考えています。
戦争=人生の戦いと考えれば、人生に勝つ術が含まれていると考えるからです。
では、孫子はその基本をどう心得ているのか、以下引用です。
戦争とは、国家の大事である。
……
五つの事がらではかり考え、七つの目算で比べ合わせて、その時の実情を求めるのである。
五つの事というのは、第一は道、第二は天、第三は五、第四は将、第五は法である。
道とは、……政治のありかたのことである。……
天とは、陰陽や気温や時節(などの自然界のめぐり)のことである。
地とは、距離や険しさや広さや高低のことである。将とは、才智や精誠や仁慈や勇敢や威厳のことである。
法とは、軍隊編成や法規や官職の治めかたや主軍の用度などである
およそこれらの五つの事は、将軍たるものはだれでも知っているが、それを深く理解しているものは勝ち、深く理解していないものは勝てない。
と言っています。
孫子は戦争について言っていますが、これを個人に当てはめたとき、こう読めるのではないかと思います。
※私は何かのリーダーになりたいわけではないでの、あくまで個人で勝つ方法として読みます。
①の道は、リーダーと下の人の気持ちが同じであること。
②の天は、チャンスを逃さないこと。
→これはビジネスでも、集団でも個人でもそう思います。
いま私は個人的にビジネスをしていますが、スピードや時代の流れは大切だなと感じています。
③の地は、物理的な時間や困難さのこと。
→これも大切。ある意味で②の天は、自分ではどうしようもないことの割合が強いですが、地はまだ何とかなる。通勤時間が長いなら変えれば良いし、高低差があるなら戦場を変えれば良い。また変えられないのであれば、それを利用する方法を考えればよい。
ここらへんは頭の柔軟さを使っていきたいと考えています。
④の将はリーダーとしての器。
→なりたいわけではないが、気にしておきたい。
才智・誠信・仁慈・勇敢・威厳…本当にどれも大切。
孫子すげえ
⑤の法は生活習慣ややり抜く力。
→生活を安定させること。また決めたことをやりぬく力と考えられる。
ここら辺を読むと個人でも成功できるノウハウが詰まっていると本当に思う。
忘れないようにしていきたい。
今回は以上です。
では、また次回。
『孫子』金谷治訳註
『孫子』とは?
今回は『孫子』です。
学ぶには古典からだなと思いまして、初めて読みました。
まあ古くは、三国時代の曹操、武田信玄、ナポレオンや近くはビルゲイツ、孫正義の愛読書であるということ。
新書や流行のビジネス書の何倍も意義があると思い、舐めるように読んでいきたいと思います。
著者と特徴
著者は中国春秋時代の武将、孫武であるというのが現在の有力な学説です。それまでは、孫ピンという違う武将であるだとか、現在でも孫武だけでなく、さまざまな人による合作であるという議論があるそうですが、少なくともその有用性は疑われていません。
ちなみにその特色は、十三篇にに分かれる戦争とはなにか、から始まり、勝つための方法論・信条論が述べられています。
私自身は、別に軍隊を率いるわけではありませんが、「人生に勝つ書」として学んでいきたいと考えています。
今回も気になったところを拾い読みしていこうと思います。
それでは。
わがままと成功の関係を理解する ①
ビジネス書、初めての投稿です。
勝間和代さんにした理由はありませんが、たまたまbookoffで安めに売っていて、買いました。
今のところ読んでいるだけで実践はしていないのですが、
備忘録的に記録していこうと思います。
勝間さんは、大学卒業後、公認会計士・戦略コンサル・証券アナリストなどを経て、「世界で最も注目すべき女性50人」に選ばれています。
まあ簡単にいってすごい人ですね。
今の私は、お金によっているので、この方の本は、
「どのようにすれば成功し、お金を稼げるか」という観点で見ていきます。
この第5章は「人間関係」と「わがまま」の関係性について書いてあります。
勝間さんは、本書の中で、成功とその定義、そして人間関係についてこう言っています。
私は成功の定義を、「自分の能力を最大限発揮することで、周りの人の助力を得ながら、自分の好きなことを達成し、それでほかの人に貢献できること」
と考えた時には、確かに私は成功したと思っています。
……
ここまで定義してきた「成功」はメンタル面のサポートがあって、すなわち、「わがまま」に生きることができる土壌があってこそ実現するのです。
……
そして、読者の皆さんに早い段階で気づいてほしいのは、わがままを通さないと成功しないということです。
ここで誤解していただきたくないのは、わがままというのは、「傍若無人にふるまえ」と言っていることではないのです。
自身の考えに近い気がします。要するに、「自分が活躍できる場で活躍し、世の中のためになれ!」ということだと思います。
では、結局わがままとはどういうことかというと、勝間さんは。
「自分の能力を最大限発揮できるよう、自分のパーソナル資産配分に優先順位をつけて周りと調和しながら、その資産配分が気持ちよく行えるよう、常に工夫すること」
だそうです。
私にできていないのは、
①優先順位
②資産配分の工夫
かなと思います。
現時点で、
①
自身の営利活動>職場>友人関係
と決めてしまいます。
②
自身の営利活動>最低限の仕事>言われたことはミスらずやる>友人関係
としておきたいと思います。
今回はここまで。
だそうです。
死の説教者ー人生を信じるためにー
今回は「死の説教者」です。
副題はいつも通り、自前です。
まず要約すると、ツァラトゥストラによれば、
「世の中には死を説教する者が多く、一方で、死んでもしょうがない人間が充満している」と言います。
以下はその、「死の説教者」についての例です。
※筆者による抜粋・意訳
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世の中には、死を説く者が多く居り、更には、説かれてもいいような人間が充満している。
死を説教者のあるものは、快楽か自虐しか教えない、快楽といっても形を変えた自虐であるのだが。
死の説教者のあるのもは、魂の結核患者たちだ。
彼らは倦怠と諦念の教えにあこがれる。
他の説教者は、
「生きることは、悩むことにすぎない」
「情欲は罪である」
「子供を産むのは、苦労である」
「同情を忘れるな」
と言う。
それからまた、人生を劇務と見、落ち着かないとみているあなたがたも、はなはだしく人生に倦んでいるのではないか?あなたがたもの死の説教を聞くにふさわしく、充分熟れているのではないのか?
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このようにみると、ツァラトゥストラのよる「死」は、=「人間性や力への意志の否定」なのではないかと((「力への意志」とはニーチェによる概念で、「人間はより力強く、高みに上っていくべき存在である、というものです。、思います。
「諦観・悩み・情欲の否定・子供の否定・同情」と、生への弱弱しさを感じる考えをツァラトゥストラは否定します。
これらを無くし、能動的に・力強く生きていくことをニーチェは望んだのでしょう。
ただ、単に能動的ではなく、自身の生を肯定し、自身で生きていくことをとても重視していると私は考えます。
劇務や、スピードや、新奇なものや、異常なものをこのむあなたがた全部ーあなたがたは自分自身の始末に困っているのだ。あなたがたの勤勉は逃避であり、自分自身を忘れようとする意志なのだ。
劇務・スピード・新奇・異常なものへのあこがれは、自身で生きていくことではなく、それらに身をゆだねているだけであり、それらに対する勤勉は、ただの逃避なのだといいます。
これは、大半の人がそうなのではないでしょうか。
日々の忙しさに追われ、その状況によって目標を変え流されているのであれば、
きっとそうなのだと自分でも思います。
ワーカーホリックという言葉がありますが、自分を生きるためにはあまりよくないということですね。
では、最後の箴言です。
ツァラトゥストラは「待つこと」を重視してこう言います。
「あなたがたがもっと人生を信じていたら、これほど瞬間に身を任せることはあるまい。だが、あなたがたは、待つことができるだけの充実した内容を、自己の中に持ち合わせていないのだーそれで怠惰にすらなれない。」
至るところに死を説く者の声がする。そして大地は、死を説教されるにふさわしいもので充満している。
自分も死を説教されるものになりたくはないです。
今回はここまでです。
喜びの情熱と悲しみの情熱ー生とは情熱ー
今回はこれです。
副題は自分でつけました。(ちなみに『ツァラトゥストラ』の副題はすべて自分でつけてます、勘違いされている方いらっしゃったらごめんなさい🙇)
今回の結論は、副題の通りです。
要するに「ニーチェは生きるってことは情熱をもってなんかすることじゃね?別に苦しみでも、喜びでもよくね?」っていうことが言いたいんだと思います。
マジ刹那的ですね。
まあだから僕含めた中二病にウケるのだと思いますが、僕はニーチェほど徹しきれてないなと一方で、悔しかったりもします。
では、本題ですが、まずニーチェは人間には「徳」があり、それを誰とも分かち合うな、と言います。
わが兄弟よ、あなたがひとつの徳を持ち、それがあなた自身の徳であるなら、それは他の何びととも共有すべきものではない筈だ。
……
むしろこういうべきなのだ。「わたしの魂に苦しみや喜びを与えるもの、私の内臓の飢えでもあるものは、言葉に言いあらわしがたく、名前をもたないものなのだ」と。
……
吃りつつ、こう言いなさい。「これがわたしの善だ。わたしはこれを愛する、私はすっかり気に入っている。……
わたしはそれを神の律法とは欲しない。……
わたしはそれを超地上的な世界、天上への楽園への道しるべにはしたくない。
わたしが愛するのは大地の徳である。そこに利口な駆引はあまりなく、万人に共通な理性はもっとすくない。……
簡単にいうと、自分の「徳」をしっかりと守り、貫きなさい。それは神などが与えるのではなく、あなた自身が決めることであり、それは他人と簡単に分かち合えるものじゃなく、更にいえば分かち合えないぐらいが良い、みたいな感じでしょうか。
(多分、日本語訳が「徳」にっているのはなんらかの意味があると思う、「信念」とかじゃなくで、ギリシア哲学とかキリスト教的な意味合いも含まれてると思う。要するに、「自分が大切だと思ったらなんでも良い」のではなく、「周りのこと、世界のことも考えようね」的意味合いだと思う。※ギリシア哲学とかキリスト教的な意味合いって言ったけど、正確にはそういう理性とか博愛精神を含みつつ、一方で人間独自のものを大切にしたかったんじゃないかな)
そのあと、ニーチェは苦しみと喜びの情熱についてこう説きます。
かつてあなたは、あなたを苦しめるさまざまな情熱を持ち、それを悪と呼んだ。しかし、今はそれがすべて徳なのだ。苦しめる情熱から生まれたものだ。
あなたはあなたの最高の目的を、これらの苦しめる情熱にふかく植えつけた、そこでかれらは徳とかわり、よろこびの情熱となった。
……
結局、すべてのそうした苦しめる情熱は徳となり、すべての悪魔は天使となったのだ。
んーー。ニーチェを「力への意思」とか「理性批判」
の人物としてみると、「キリスト教・理性世界の苦しみは、今まさに人間を中心とした徳の中で、喜びへと変わるのだ!!」的なニュアンスなのでしょうか。
ただこれで読むとつまらないので、素直に自分に照らして読むと、
「昔悩んでたことが、一方で喜びにかわる瞬間があるよね」ぐらいにしか聞こえませんねーまあ解釈はこのぐらいにしておきます。
ただ、最初読んだときは「自分の信念を持とう」くらいにしか読んでいなかったのですが、「信念」じゃなく、「徳」って書いてあることが二度目以降に印象に残っています。
ま、一人よがりすぎるのはいけませんかね。。。
一方で、強くいくときも必要だとも思います。
では、今日は次の文で最後です。この流れで終わるのかと思っていたのですが、
最後がまだわからない、こんな形で終わっています。
負けじ魂の炎に包まれた者は、ついにはさそりのようにわれとわが身に毒の針をさす。
ああ、わが兄弟よ、あなたはまだ自分の徳が自分自身を咎め、自分自身を刺し殺すのを見たことがないのか?
人間は克服されなければならない或る物である。だからあなたはあなたの徳たちを愛さなければならない。-なぜなら、あなたは徳たちによってほろびるであろうから。-
また次回。